ロック少年リハビリ日記に載る。

ポピュラー音楽研究家の増田聡氏の日記・3/16分にムネオハウスの記述が。

3/16
(前略)
John Oswald 'Plexure' New!
 93年、ディスクユニオンからリリース。オレがこの人の名前を知ったのはクリス・カトラー『ファイル・アンダー・ポピュラー』においてだったが、そこでの論点は著作権システムと作者のオーセンティシティに対する批判的実践に焦点が置かれていた。しかし、著名なポップ・ミュージックをサンプリングしコンマ数秒単位の断片に切り刻みつなぎ合わせる彼の音楽が、理論的批判の実践から出発したものでありながら、その「サウンドの記憶の分裂症的集積」が奇妙に魅惑的な疾走感を獲得してしまう構図は、『アヴァン・ミュージック・ガイド』(作品社)に収録されたヲノサトルによる紹介記事が指摘する通り、たいそう興味深い。これは我々はポップを「音楽学的に」聞いているわけではないことの実践的例示なのだ。アイコンとしてのサウンド、快楽のインデックスとしてのサウンド。オレにとってはサンプリングを主要な手法として用いる音楽家の中では、もっとも興味を惹かれる一人である。その感覚は、結局「マニフェストとしてのサンプリング」しか用いない大友良英(だって彼の音楽、別にサンプリングじゃなくてもできるじゃん)よりも、「快楽のインデックスを操作するためのサンプリング」を用いる寺田創一の方が圧倒的に面白いのと同じであろう。
 「ムネオ・ハウス」ムーブメント(笑)(ことの起こり)もまた、そのような「インデックスとしてのサウンド」を意義あるディスコースとして編制せんとする作業の一つだ。DJミュージック、サンプリング・ミュージックが音楽史にとって意義を残すとするならば、それはジョン・オズワルドや寺田創一が示したような仕方であって、決して大友良英の「前衛的」実践の方ではないと思う。J・アタリの言う「作曲の系」としての音楽とは、「ムネオハウス」という一語のシャレに反応した無数で無名のリスナー/クリエイターたちが、一夜のうちに鈴木宗男の音声のハウス・リミックスを無数に作り上げ、CDジャケットからライナーノートまで産み出してしまうような、制作と受容が一体化し聞くことがそのまま作ることであるような音楽実践を指すのだと思う。
 …いや、こんなん書いてる暇はないんです。この週末はマスコミ理論のおさらいやってます…。
ロック少年リハビリ日記 2002年3月分(WebArchiveより発掘)

(15-45さん情報) 16日の頃はまだ平和な方でした。